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[10] 堀文子さんの仕事・・・2008(平成20年)2月
08-03-26-15:53

月ごとに『サライ』に掲載されている堀文子さんの画文に心惹かれます。

既に卆寿を過ぎたとはとうてい信じられない描線の鋭さ、色彩の透明感にまず脱帽の思いです。そして画題に触発された短い文章が、その画と同様、また峻烈です。媚びやおもねりを一切廃した仮借のない太刀さばきは、むしろせいせいと心地よくさえある。いつかはああした論陣を張れるようになりたいものだと再度感服します。

もっとその仕事や人となりにふれたくなって、冬ごもりの間に何冊か彼女の本を求めました。

『命といふもの』・・・四季折々の花や草、果実や芋、時に貝や虫といったかそけき命たちをこれほどクローズアップして描きとどめた画家を、私は他に知りません。その色彩の瑞々しいこと。その造形の複雑にして巧緻なこと。そして時に警鐘のようにまた遠い晩鐘のように、遠近(おちこち)と響き合う選ばれた言葉たち。

さらに来し方90年を自叙した『ホルトの木の下で』
良質な自伝は時に小説以上に寓意に満ちて普遍的です。とくに女性のそれに秀作が多い。
例えば往年の名女優沢村貞子の『私の浅草』
向田邦子の『父の詫び状』然り。
白眉は開拓農民であり詩人であった吉野せいの『洟を垂らした神』
堀画伯の『ホルトの木の下で』は、そうした名作に並ぶ力作ですね。まちがいなく。

ホルトの木とは、オリーブに似た大樹だそうですね。白い花を咲かせ緑の実をつける。近くにあったその古木が再開発で伐採されると知った画伯は、私財一切をなげうって土地ごとそのホルトの木を助け、その樹下に新しいアトリエを編んだそうです。

おのが命より長い、ホルトの木の陰影や春秋を寸断することの罪深さに、きっと絶望したのですね。そしておのが生の証をホルトの生命力に託そうとしたのですね。きっと・・・

そのおかげで、ホルトの木の下で語られてきた無数の、しかも無名の物語は命を長らえました。ホルトの木の下で堀画伯が紡いだこの本は、これから紡がれるであろう未来さえ予感させます。きっと題名には、そうした思いが込められているのだと私は合点しています。

およそ老いとは無縁の感性に打たれるのは、きっと私だけではないはずです。
釣り師にも「インドア・フィッシャー」なるうるさ型が蘊蓄を傾けるように、雪の日はじっと部屋に籠もってあれこれ土に思いをはせながら誌上で花を選ぶのも楽しいかも知れませんね。


[9] 繚乱の一月・・・2008(平成20年)1月
08-02-13-17:17

みなさま、あけましておめでとうございます。
今年も変わらぬお引き立てを賜りますよう、
よろしくお願い申しあげます。

新春初売りは二日より。寒い一月になりました。
昔読んだ、森敦さんの芥川賞受賞作『月山(がっさん)』の中の、
雪中の花を楽しむシーンを折節思い出します。
何の酔狂かとある屋敷で、雪に埋もれた庭木を掘り出して、雪中の花木を堪能した。それは見る人に、まるでこの世のものとも思われぬ感興を催させたのですが、翌日目覚めると、まるで魔法が解けたかのように、掘り起こした一角の花木は、寒に当たって赤茶けて立ち枯れていた。主人公が幽玄境のような月山の山懐からさまよい出てきた様を象徴的に描写した名場面ですが、いやいや一夜の夢ではなく、現実の一月は、むしろ意外に多彩だと思うのです。
椿、山茶花、水仙。ビオラやパンジーも、這いつくばるように雪を凌ぎながら、可憐な花弁を絶やさない。五月や躑躅はすでに、赤い蕾を宿している。
こんな寒空に、何故に花を開くのか。虫を誘うためではなさそうだとは解りますが、風を媒介に使うなら、その為にかくも可憐な装いなど必要なかろうにと訝かりくなるほど、冬の花たちは饒舌で豊かです。
If winter comes, Can spring be far behind.
冬来たりなば、春遠からじ。これは至言だと思いますし、自然は豊穣だとも実感します。

近ごろ、冬の装いが華やかになりましたね。でも、もっと華やかであってもいい。
冬の自然が多彩なように、冬の人間ももっと多彩を楽しみたい。この冬はレッグウェアが流行しました。多彩なタイツをポイントカラーのように配色する。
帽子が流行る冬もあれば、マフラーやストールといった襟元のおしゃれが流行る年もあります。
バイヤーの直感から言えば、来年の冬はきっと毛糸が流行るぞ。いえいえ、うちの屋号が「ケイトヤ」だからじゃなく、カラフルでウォーミーな感覚が妙に新鮮で懐かしいなと・・・きっと流行るぞと・・・、これを端的に言い表す言葉があればいいのになぁと・・・、宿題にしますね。

花の咲かない冬の日に、下へ下へと根を伸ばした木々もあることでしょう。やがて揚げひばりがさえずり、神が空に城しめしたような光が万物にふりそそぐ春。
しかし花たちは次々ととぎれることなく、すでに次の花弁を忍ばせているのですね。かくも冬こそ繚乱といえないでしょうか。


[8] すいせんの香り・・・2007(平成19年)12月
08-02-13-16:07

師走にはいると、すいせんのことが気にかかり始めます。
清楚でどこか寂しげな「すいせん」が好きですね。

年も押し詰まったとある日、風雪の激しい日でした。
車を駆って越前海岸を巡ってきました。
疾風怒濤が岩を攻めあげます。千切れ舞う波の花。
遠くシベリアの果てから止めどなく流れ来る雪雲。海に直落する絶壁にへばりつくように群生するすいせんを雹のつぶてが容赦なく打ちます。それでいて何の不可思議もなく、何の過酷さも感じさせない気高い花を開く様は、奇跡のように美しいと思います。
その様を一目見たくて、また見せたくて、誰彼となく誘い出し、海岸を車で駆るのがわたしの冬の楽しみです。迷惑な話でしょうが。
その日の餌食は中2の次男でした。海岸へ出る山の中で、視界が効かない吹雪に立ち往生して、倅は半べそになりました。言葉巧みに誘い出した父を、きっと彼は恨んだことでしょう。
海岸をたどると、随所に無人スタンドがあって、すいせんが束で売られてあります。金額は随意、値段が決められていてもせいぜい百円玉2つ3つ。束を抱えて、本当にこれでいいのかと見直すほどに安い。
売るほど車に詰め込んで嬉々としているこの父は、きっと倅の理解を超えていたにちがいありません。彼は終始無言で、語りかけても返事もしなくなってしまいました。
倅よ・・・
今に解るから。この世の中は矛盾の束なのだ。不条理で不都合なことばかりが逆巻いている。それ故に人間には奇跡が必要なのだ。様々の矛盾に抗って生きていくための一条の光明が必要になるのだ。一本のすいせんが・・・
無論、そんな野暮も申しませんで、ただそっと熱燗ならぬ熱い缶コーヒーをあてがってやりましたところ、
「いい香りや・・・」
柄にもないことを呟きました。
そうだ、解るか倅よ。このすいせんの驚くほど清冽な香りを、穢土に開いた峻烈なこの啓示を・・・
と、その独り言を引き取りたかった父ではありましたが、無論、彼は、缶コーヒーについての直下な感想を呟いたに過ぎないので、別に天啓を感じたわけではないのでありました。

越前岬の「すいせん」は、寒い場所に生けてさえおけば、少しうつむき加減の白い花が一月でも二月でももつ。
お正月用にと玄関に生けた一株が、驚くほど濃厚な香気を放ち始めて、さしもの倅の奴も、過日、おっと立ち止まりました。
ただそれだけの話ですが、ただそれだけでこの父の企みは八分どおり完成されたようなものだとほくそ笑んでいます。


[7] ターシャのように・・・2007(平成19年)11月
08-02-13-13:25

喜びとは自ら作り出すものなのよ・・・
庭いじりをしながら呟くように静かに語るターシャ・テューダーに憧れます。
生き急がない彼女の人生には、勝者としてのゆとりすら感じます。翻って、我と我が身のなんと性急で短絡的な生き方であることか。

園芸にはいろいろな楽しみ方があるのでしょうが、私の場合は何を植えようかと迷っているときが一番楽しい。
種や芋を選びながら土の配合を考えたりする。もちろん手前味噌で、レシピのように正確でもありませんから、専門家のように打率は高くない。だけどごく希に、どこで何が作用したのか思わぬ出来にあずかることがある。その豊作の喜びが忘れられない。そうした希少な結果を得たいが為に、いつも多くの失敗を繰り返している。
それではきっと、いい園芸家にはなれないのでしょうね。「待つ」という営為の大切さを知っているからこそ、ターシャ・テューダーは偉大なのだと気がつきました。結果を性急に求めることのなんと浅薄なことか・・・

ケイトヤではイタリアンレストランも経営しています。
「バーンズ・カフェ」
「ボストン・バーンズ」という屋号の頃から数えるともう30年近くにもなります。本店となり。ケイトヤ・アネックスビルの2階。福井でのイタ飯やの草分けです。
シェフも何代か替わりましたが、今の宮谷シェフが一番誠実な料理を作る。競合他店がひしめくなかで、まるで世捨て人のように超然と自分のスタイルを崩しません。
徹頭徹尾、地産地消。出所の解らない素材は決して使わない。ベーコンでもソースでも薬味オイルでも一から全てを手作りでまかなう。決して急がない。これがようやく今、時代の歩調に合うようになってきたと感じます。
ベルトコンベアで回転する寿司が、干からびたという理由でどんどん捨てられていく。作られて数時間しか経てない弁当やハンバーガーが、鮮度を理由に処分される。大量生産、大量廃棄の食文化のなんとさもしく貧しいことか・・・
イタリヤ料理なのだから、ゆっくりと時間をかけて大人数で楽しくやるのが常道じゃないか。もっとくつろいで。大きな声で笑って・・・そうした食のあり方を無骨に提案し続ける店が、アンチテーゼのように存在し続けてもいいじゃないか。
宮谷シェフを見ているとふとターシャの生き方に重ね合わせてしまいます。

11月、近所のホームセンターで、サザンカの若木を8本買いました。
自宅のベランダに、目隠しも兼ねて植栽しています。これが堅い蕾をみごとに鈴なりにつけている。花が開くとさぞや見事だろうと毎朝のぞかずにはおれません。しかしいっこうに開花する気配がない。上手く根付いたのか、肥しの配合がおかしかったのか、気になって気になって、まるで釣り師のように片時も気が休まらない。
どうやら私には、園芸家としての資質が、
決定的に欠如しているようですね。
園芸家のような商売のあり方、これは次世代の
商売の地平を開くキーワードになるかも知れない
という思いに、ふと駆られる今です。


[6] 冷静と情熱の間・・・2007(平成19年)10月
07-10-25-12:04

愛するあまりに盲目になることがあります。
本人の思い入れとは別に、えてして一人芝居を演じているのが常です。
冷静に見れば、当人の空回りは、滑稽以外の何物でもない。その思いか強くなればなるほど人心から乖離します。こだわりや思い入れが、やがては偏執に変貌してしまうことさえある。
私どもの仕事の基本は、審美眼です。
その物が持つ美しさや機能性を、時には作者すら意図しなかった特性さえも見いだして、その価値に代価を支払わせること・・・といっては言い過ぎでしょうか。
ですから、古今、商売には、商品の価値を喧伝するあまり、つまり思い入れのあまりに、絶えず虚偽や誇大な広告の危険を孕み続けてきたことも事実です。
私どもは、思い入れのあまりに、自家中毒になりかねないという危機感を忘れてはいけないのです。
客観的な審美眼を曇らせてはいけませんし、伝統や神話という言葉に酔ってもならないのです。

夏の終わり、私は市場調査もかねて、客を装い、ある店を物色していました。
夏のバーゲンで乱雑になったハンガーの商品に手をかけかけた私に向かって、介添えに入ったアドバイザー(販売員)が、
「この子、かわいいでしょ?」
「この子」が、私が手に取りかけているジャケットを差していることに合点して、屈託のないその販売員の瞳をまざまざと見つめ返さざるを得ませんでした。
私なら、「この子」をみすみす安売りになどできません。ぎしぎしのハンガーに押し込むことさえできません。「この子」とよぶアドバイザーのすべてがなんと軽薄に映ったことか。

デザイナーやアドバイザーには、「この子」や「この娘」といった一入の思い入れがあるのは当然です。そうした思い入れがなければ、商品として世に問うべきではない。
しかし同時に、その思いをいかに万人と共有できるかという次元での発想や、自作を否定し続ける向上心も、物の価値を高めるためには大切ではないのでしょうか。
物をためらいなく擬人化するアドバイザーより、物としての機能や向き不向きを冷静に評価してくれるアドバイザーの審美眼にこそ、私は信頼を置きたい。

花を育てていてふと感じます。溺愛のあまり水や肥料を
まめに与えすぎて、駄目にしてしまうことがある。
時に過酷な条件に置いた方が、結果として強く美しい実りを
残してくれることが多い。その時には、冷静に摘花し、
葉や枝をためらわず間引く思い切りも必要になってくる。
情熱とは、冷静に裏付けられたそれでありたい。
経営者として自戒し続けたいと思っていますね。


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