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[20] 白菊の花・・・2008(平成20年)12月
08-12-10-15:32

この一年をどう振り返ったものか・・・
あれよあれよという間に胸元までひたひたと水が押し寄せてきたような、どうしようもない不安感を覚えます。
いろんな人がいろんなトリガーを引いたのは事実として、きっと歴史の波にもまれているただ中を、我々は経験しているのだと思います。
せめても、雨の日は雨を雪降る日には雪を愛でる閑日を持とうではありませんか。

そんな意味を込めて12月は「白菊」を選びました。
『ホトトギス』で世に出て、やがて『馬酔木』で新境地を拓いた水原秋桜子(みずはらしゅうおうし)の、

「冬菊の まとうはおのがひかりのみ」

その堂々たる句風に憧れを禁じ得ないからです。
毫のケレンや嫌味もなく、むしろ清々しくさえある。
写生を越えた強い意志を感じるのは私だけでしょうか。
何の解釈が要るでしょう。

この句を思い出すと、どうしても『百人一首』の
凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)の歌を連想せずにはおれません。

「心あてに 折らばや折らむ 初霜の おきまどわせる 白菊の花」

『古今集』の代表歌の一つです。
初霜が降りて一面の白。その清冽な印象を、
白菊のありかも見紛うほどだ。当て推量で白菊を手折らざるを得ないほどに・・・と鮮烈に詠み上げています。
しかし、こういう象徴の仕方は、下手をすると稚拙にとられかねない。
現に遙か後世、写実主義を提唱した正岡子規(まさおかしき)が、その『歌よみに与うる書』の中で『古今集』を批判したとき、この歌もこっぴどくやり玉に挙げられました。
およそ事実を事実として写生していない。
初霜が置いたくらいで白菊と見分けがつかぬなどとは笑止。はったりも程々にした方がいい・・・
客体をあるがままに写生することを提唱していた子規にとっては、駄洒落にも等しい表現としか映らなかったようですね。

子規の考え方は、愛弟子ともいうべき高浜虚子(たかはまきょし)や『ホトトギス』の同人たちによって引き継がれていくわけですが、その『ホトトギス』によって世に出された水原秋桜子が、やがて客観写生だけでは飽き足らなくなり始める。
写実に偏りすぎては、かえって瑣末な現実の描写に陥って句風が矮小化してしまわないかと・・・

ふと、かつての京大の桑原武夫教授による『俳句第二芸術論』を思い出します。桑原教授も我が福井県人でした・・・

俳句という最も短い「詩」の表現形式に、歌のような抒情性や主観の回復を企図して、水原秋桜子はホトトギス派と決別し、句誌『馬酔木(あせび)』を立ち上げるわけです。
そんないきさつを知って冒頭の秋桜子の一句を読み直してみると、これは明らかに、往時、神格化されつつあった子規への、痛烈な反論のように見えてきます。
凡河内躬恒の歌の中に、むしろ積極的に、峻烈で孤高な精神性と表現センスを見いだすべきだという論陣の、秋桜子なりの答の出し方が、

「冬菊の まとうはおのがひかりのみ」

であったと私には感じられます。
幾千万といえども我行かんといった決意の歌。

と、こう書いてきて、我ながら困ったもんですね。ちっとは商売のことも書けばいいのに。
まぁ、写実ではなく、精神的に頑張ろうという気持ちを込めたつもりなんですが・・・


[19] 柿右衛門の柿・・・2008(平成20年)11月
08-11-10-15:32

柿の木などは、果実の印象が鮮烈なあまり、花の印象が薄い。
皆さんはそんなことありませんか?

果実のヘタになる大振りのがくの中に
淡黄色とも乳白色ともつかぬ四枚の花弁がそりくり返っている。
『枕草子』に、見苦しくて可愛くないものの例えとして「梨の花」が掲げてあったように記憶していますが、その梨の花でさえ、柿の花に比べれば何と可憐なこと。

それほど柿の花はぱっとしない。果実を実らせるための単なる器官、或いは装置といっても良いくらい誠に素っ気ない。

しかしこれで花まで美しいとなれば、柿は今日まで生存していなかったかも知れないと考えることもあります。
花木は花を取るか実を取るか、生存ぎりぎりのところでいつも究極の選択を強いられてきた。
柿は果実を選択して、その持てるエネルギーを果実の充実に傾注することで、今日の繁栄を獲得した木の典型と考えることはできないでしょうか。
柿の木は、人里にあって人家の庭木としての、いわば人間へのパラサイトという道を選択して繁栄した。
ちょうど動物に例えるなら、犬や猫のように、人間の愛玩動物という究極の選択をして種の繁栄を獲得した、人に最も身近な植物のようにさえ思えきます。
それほど我々日本人にとっては、古来、柿は身近な存在でした。

「柿が紅くなれば、医者は青くなる」

という諺があるそうですね。それくらい、昔から柿を重宝した。柿さえしっかり食べておけば、病気にかかることなど無いと・・・
また、柿渋も日常生活には不可欠でした。和紙や木材を柿渋で染めて、耐久性を増した。
飢饉の折には補助食として、また越冬用の保存食として、これまで柿はどれほどの薄命をつないできたことでしょう。

今年は柿は豊作でしたね。
買ったり到来したり、今年はどれほど柿を頂いたことか。きっと、夏の猛暑が幸いしたのだと思います。
この時期、里を回ってみますと、屋敷囲いの見事な柿の木が、殆ど手をつけられずに鈴なりのまま朽ちるに任せてある風景を目にします。
昔のように必需としなくなったことや、人手か足りず手が回らなくなっているせいだと思いますが、柿好きの私としては、ため息が出るほど勿体ない。これでは野禽も持て余します。
中には五百近くも実をつける大樹が、野ざらしになっていたりする。干したり、合わせたりして何とか始末ができないのだろうか・・・

酒に漬けたり、煮詰めてジャムにしたりはどうだろう・・・

柿右衛門は、独自の「赤」を発色させるために大変な苦労を重ねたと聞きますが、柿の色にも例えられるその色は、確かに比類なき色ですね。
柿は柿でも、夕日に照り映えた熟柿の色です。
時折、百貨店の美術画廊でお目にかかりますが、人を魅了する、憧憬の色には違いありません。
あの「赤」を際だたせるために、きっと柿右衛門は、赤と同じく、或いはそれ以上に背景の白にも配慮しているのではないかと感じます。
赤同様、背景の白も、他にはない暖かさと甘さを感じさせる白です。
柿右衛門の器は、紅白よく交響している。

柿のお酒ができたら、淡黄色とも乳白色ともつかない、柿の花のような色の酒器がよく似合うだろう。
ジャムは四枚の花弁が反り返った、つり鐘のような器が似合いそうだ・・・

何のことはない。結局は花より団子のような話に帰結してしまいました。


[18] 紅い花・・・2008(平成20年)10月
08-10-10-15:32

前月で与謝野晶子について書いた以上、山川登美子についても触れざるを得ませんね。やはり福井県人としては・・・

登美子も晶子と同じ『明星』に依った歌人ですが、鉄幹をめぐる三角関係は、余人の憶測を許さぬほど複雑です。
晶子を姉と慕いながらも、鉄幹を巡っては熾烈な一面を伺わせている。
前出の
「なにとなく 君に待たるる心地して 花野に出でぬ 夕月夜かな」
と詠んだ晶子の裏をかいたような登美子の歌があります。

「里の夜を 姉にも云わで ねむの花 君みむ道に 歌むすび来ぬ」

鉄幹の愛に何の疑いも挟まぬほど奔放で一直線な晶子の愛情表現に比べて、登美子のそれは姉の目を盗んだ秘め事のような意地悪さを孕んでいる。まるで荒井由美の『まちぶせ』のようですね。
これはきっと晶子へのコンプレックスなのですね。
登美子はまた、こんな歌も詠んでいる。

 

 

 

 

「紅の花 朝々摘むに 数尽きず 待つと百日(ももか)を なぐさめおらん」

断ち切っても断ち切っても尽きない鉄幹への思いを、登美子自身どうしたら良いというのか・・・
一方では晶子を慕って大阪住之江に遊んだ折に、登美子は晶子を前にこんな歌も詠んでいるというのに。

「それとなく 紅き花みな 友に譲りて そむきて泣きて 忘れ草つむ」

晶子を慕いながらも同時によぎる切ない思い。
千々に乱れる登美子の心。晶子は解ってくれているのだろうか。
また鉄幹は、登美子の秘めたる思いに向き合ってくれるのだろうか・・・

鉄幹自身も晶子と登美子の間を揺れ動いていたのは事実のようで、鉄幹への愛を断ち切るように、親の言いなりに故郷で結婚した登美子が、わずか2年で夫に先立たれ、再び『明星』に返り咲いたときに、鉄幹は登美子への赤裸々な歌を献じて晶子を悲嘆させたりもしている。
大変な愛憎劇ではありませんか。

晶子と登美子。
やはり晶子は浪速っ娘。よきもわるきもストレート。そんな都会育ちを羨んだのか、登美子も自分の歌風をよく心得ていたようで、故郷小浜に建てられた歌碑にはこう刻まれてある。

「いく尋の 波は帆を越す 雲に笑み 北国人と うたわれにけり」

紅い花を心深く愛した歌人は、どこか白百合のように怜悧な美しさを秘めた人だったといいます。


[17] 花野・・・2008(平成20年)9月
08-09-10-15:32

「花」といえば春の季語ですが、「花野」となると秋の季語に変ずる。
秋の質素な花が野面一面を覆う花野を、折節、野分がなぎ倒して過ぎる。私はそんな渺々たる情景を想像しますが、

「なにとなく 君に待たるる心地して 出でし花野の 夕月夜かな」

と詠んだのは、与謝野晶子でしたか・・・
月光に浮かびあがった花野の、優美なこと怪しげなこと。
与謝野晶子の艶やかさや美しさ、時にはっとするような激しさは、言葉の配置や取り合わせの妙にあるのであって、直截な表現をして生まれるものでは決してないのですから、どうか「チョコレート語訳」などという橋本治の追従のようなことはやめていただきたいと、私は市井の片隅で思っていますが、言いすぎましたか。

花野といえば、春の艶やかさや夏の一途な華やかさとは一線を画した、静かで控えめな花を思い浮かべますが、「すすき」を「尾花」と呼び変えて花野の花に含めてみてはどうでしょう。
すすき野原を渡る風を「尾花吹く風」と表現したのは北原白秋でしたか・・・

「遠きもの、まず揺れて、次々に、目に揺れて、揺れ来たるもの風なりと、思う間もなく我いよよ、揺られ始めぬ」

と、確かこんな詩だったと記憶します。原典に当たり直せばよいものを。

「風吹けば風吹くがまま、我はただ揺られ揺られつ。揺られつつその風をまた、我が後ろ遙かに送る・・・」

やがては重厚な人生の諦観、或いは諭しのように、歌詞に厚みが増してくる。
思想や妄念、宗教や哲学、人智の及ぶ業すべては、脳の中で起こる化学反応の産物に過ぎないと喝破した大脳生理学者がいましたが、いわば無情の淵を垣間見たような儚さも「花野」という言葉には含まれているように思えてきます。

たといあの世が、脳内物質の化学反応の所産に過ぎなくとも、「花野」を去って「花野」に到る夢が見られるのなら、それはそれで有り難いことではありますまいか。

なんてね。悟りましたかな。


[16] 昨日まで無かりし花・・・2008(平成20年)8月
08-08-10-15:32

橘曙覧(たちばなのあけみ)の名を初めて知ったのは、受験を控えた中学3年の国語の時間でした。
佐藤先生という初老の先生が、
「福井といえば、橘曙覧ですね。当然、御存じだろうけど・・・」
あっけにとられている生徒たちの顔を楽しそうに見回しました。まるで知らなければ人にあらずとでも言わんばかりに・・・
そうして幕末に編まれた『独楽吟』から、「楽しみは・・・」で始まり「・・・時」で終わる、まるで独り言のような平易な句を何首か板書して、教えるというよりはともに鑑賞してくださったと記憶しています。

昔は先生方もゆとりがあったとしみじみ感じますね。教科書にはないことでも、当然知っておくべき教養を当たり前のように教えてくださった。
時間のゆとりもさることながら、先生の教養の裾野も広大であったに違いないと今更に感じます。
その中学で得た教養が再び呼び覚まされたのは、ずっと後、1994年(平成6年)6月13日のこと。
訪米された天皇皇后両陛下の歓迎式典がワシントンにて催された際、スピーチにたったクリントン大統領は、おもいがけず『独楽吟』の中から一首を引用したのでした。

「たのしみは 朝おきいでて、昨日まで 無かりし花の 咲ける見る時」

こうしてこれからも日々積み上げられて行くであろう両国の友好を、朝毎に開花する花にたとえて見せたのでした。
これは福井県民として衝撃でしたね。
息子どもに、夢中で、
「福井といえば橘曙覧だ。当然知ってるだろうけど・・・」
知らなければ福井県人として、いや人として恥だと言わんばかりに説明している自分がおりました。
嬉しかった。中学時代の佐藤先生の諭しがとても有り難かった。

何故クリントン大統領が、橘曙覧の短歌を引用したのか、その辺のいきさつは、おおかたホワイトハウスのスピーチ起草室の専門官の入れ知恵だと思いますが、米国という国のインテリジェンスの質を思い知らされた瞬間でもありました。
後日、クリントン大統領が引用したという原文を調べましたら、こうありました。

It is a pleasure
When, rising the morning
I go outside and
Find that a flower has bloomed
That was no there yesterday

ドナルド・キーン博士の訳出だそうですが、僭越ながら誠に質朴な雰囲気がよく伝わっていると思います。

曙覧がこの時に詠んだ花は、きっと朝顔ですね。
朝毎に、丹精した朝顔が花開く楽しみ。
きっと誰にも経験のあることではないでしょうか。
曙覧が普遍的なのは、そうした日常の取るに足らないような瑣事に
題を採ったからではないかと思います。
曙覧も花に心癒されていた一人であったと解る一首もあります。

「たのしみは 庭にうゑたる 春秋の 花のさかりに あへる時時」

本当はここで締めくくろうと思ったのですが、もう一首だけ、
同じく雪国福井に生まれ育った私の琴線を揺るがした句を掲げます。

「たのしみは 雪ふる夜さり 酒の糟(かす) あぶりて食いて 火にあたる時」

偉大な先達が、ふと等身大に見えました。


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