柿の木などは、果実の印象が鮮烈なあまり、花の印象が薄い。
皆さんはそんなことありませんか?
果実のヘタになる大振りのがくの中に
淡黄色とも乳白色ともつかぬ四枚の花弁がそりくり返っている。
『枕草子』に、見苦しくて可愛くないものの例えとして「梨の花」が掲げてあったように記憶していますが、その梨の花でさえ、柿の花に比べれば何と可憐なこと。
それほど柿の花はぱっとしない。果実を実らせるための単なる器官、或いは装置といっても良いくらい誠に素っ気ない。
しかしこれで花まで美しいとなれば、柿は今日まで生存していなかったかも知れないと考えることもあります。
花木は花を取るか実を取るか、生存ぎりぎりのところでいつも究極の選択を強いられてきた。
柿は果実を選択して、その持てるエネルギーを果実の充実に傾注することで、今日の繁栄を獲得した木の典型と考えることはできないでしょうか。
柿の木は、人里にあって人家の庭木としての、いわば人間へのパラサイトという道を選択して繁栄した。
ちょうど動物に例えるなら、犬や猫のように、人間の愛玩動物という究極の選択をして種の繁栄を獲得した、人に最も身近な植物のようにさえ思えきます。
それほど我々日本人にとっては、古来、柿は身近な存在でした。
「柿が紅くなれば、医者は青くなる」
という諺があるそうですね。それくらい、昔から柿を重宝した。柿さえしっかり食べておけば、病気にかかることなど無いと・・・
また、柿渋も日常生活には不可欠でした。和紙や木材を柿渋で染めて、耐久性を増した。
飢饉の折には補助食として、また越冬用の保存食として、これまで柿はどれほどの薄命をつないできたことでしょう。
今年は柿は豊作でしたね。
買ったり到来したり、今年はどれほど柿を頂いたことか。きっと、夏の猛暑が幸いしたのだと思います。
この時期、里を回ってみますと、屋敷囲いの見事な柿の木が、殆ど手をつけられずに鈴なりのまま朽ちるに任せてある風景を目にします。
昔のように必需としなくなったことや、人手か足りず手が回らなくなっているせいだと思いますが、柿好きの私としては、ため息が出るほど勿体ない。これでは野禽も持て余します。
中には五百近くも実をつける大樹が、野ざらしになっていたりする。干したり、合わせたりして何とか始末ができないのだろうか・・・
酒に漬けたり、煮詰めてジャムにしたりはどうだろう・・・
柿右衛門は、独自の「赤」を発色させるために大変な苦労を重ねたと聞きますが、柿の色にも例えられるその色は、確かに比類なき色ですね。
柿は柿でも、夕日に照り映えた熟柿の色です。
時折、百貨店の美術画廊でお目にかかりますが、人を魅了する、憧憬の色には違いありません。
あの「赤」を際だたせるために、きっと柿右衛門は、赤と同じく、或いはそれ以上に背景の白にも配慮しているのではないかと感じます。
赤同様、背景の白も、他にはない暖かさと甘さを感じさせる白です。
柿右衛門の器は、紅白よく交響している。
柿のお酒ができたら、淡黄色とも乳白色ともつかない、柿の花のような色の酒器がよく似合うだろう。
ジャムは四枚の花弁が反り返った、つり鐘のような器が似合いそうだ・・・
何のことはない。結局は花より団子のような話に帰結してしまいました。